1回目「好き…キライ…すき…嫌い? 別に嫌いじゃないのよね」
2回目「嫌い…スキ…きらい…好き? 私のどこが好きっていうの」
花占いでも答えが出なかったら。
●好きと嫌いは紙一重
萌えキャラ作りは萌え要素を詰め込むのが定石ですが、例外だらけです。
『上手くはないけど好き』
萌えキャラ愛好家には作家の精神性を重んじる傾向があって、単に技術が未熟なものに対しては寛容です。高い技術で描き上げられた作品は素晴らしいですが、一見自分でも描けそうな感じの絵にも親しみを覚えるものです。自分でも描いてみたことのある人が多い萌えキャラ愛好家の人々は、絵を描くのが案外難しいことを知っています。上を見れば切りがないことも知っています。技術は目的を持って描いていればそのうち上がっていくことまで知っています。ちなみに描かない愛好家の場合あまり細かい間違いに突っ込んだりしないので案外大丈夫です。一方絵の精神的な部分はそう簡単には変わらないので、長い目で見れば愛好家にとって自分とあった波長の作品は大変価値があるのです。もちろん絵が上手ければ最高ですが、自分とぴったりなものを探すとなると絶対数が相当少なく、画力の善し悪し以前にツボをしっかり押さえてくれるものが存在するかどうかの方が問題になりやすいのです。単に想像の余地のある未熟なものが好きな人も、とりあえず『上手くはないけど好き』と言っておくと聞き流してもらえます。
『上手すぎて近寄り難い』
萌えキャラは親しみやすさが魅力の一つです。絵は分かりやすい高度な技術のものに人気が集まりやすい反面、上手すぎると遠い世界の存在に思えてしまう場合があるのはこのためです。どれだけ素敵でも絶対手の届かない完璧な異性にはそれほど魅力を感じない感覚にも似ています。絵が上手過ぎるために少しのバランスの崩れが目立ってしまっていたり、こなれていない3Dモデルのように機械的・説明的に見えてしまう場合も、萌えるより先に距離を感じます。とはいえ、いくらあっても足りない技術なので、上手すぎることを心配するよりは、ちゃんと心の炉が燃えているかを気にした方がよさそうです。
萌えキャラのお得意さんでもあるオタクは自分の好きな作品の矛盾や未熟さを容赦なくつついて楽しみ、嫌いな作品ならファミレスの赤じゅうたんのように踏みにじって優越感を感じる残酷さを持っています。これはオタク人特有の斜めに構えた楽しみ方なので、絵描きは真に受け過ぎると辛い思いをします。だからといって作品にガチガチの理論武装を固め過ぎで揚げ足取りができるような隙がまったく残っていないと、彼らの心の灯りとしては眩し過ぎるのです。一切突っ込み所のない人気キャラクターは少ないけれど、圧倒的な矛盾があるからこそ国民的な人気を得たキャラクターは少なくありません。完全無欠は素晴らしいようで無個性になりがちです。スーパーヒーローだって大抵一つは弱点を持っているもので、絵もキャラクターも多少隙や癖があった方が親しみやすいのです。
使われている媒体や用途のせいで近寄り難い可能性もあります。例えば同じ女の子の絵でも体育の教科書の水泳のページで自由形を実演している女の子の説明カットと、萌えキャラ講座でビート板を持っているのに溺れそうなスクール水着の美少女の絵は見る所が違うのです。違わないかもしれませんが違うのです。ラジオ体操第二の解説用に描かれたブルマの女の子と萌えマンガに出てくるブルマの女の子でも同じことです。現実と空想の間のふわりとした領域がもっとも敏感な萌えの肝です。実用書などの説明カットは正しさ最優先に描かれておりかなり説明的な絵になっているので、常に現実の影がちらつくため萌えにくいのです。もし教科書カットの飾りっ気のない絵柄が案外可愛いことに気付いてしまったら一回休みをとるべきでしょう。
『そっくり真似た絵柄が大嫌い』
“汝、神の絵柄をみだりに真似ることなかれ”
あの有名作家の絵柄は好きでも嫌いでもないけど、区別がつかないぐらいそっくり真似て描いた同人絵柄は大嫌い。
アニメまんが系お絵描き系のサイトを探せばこんな記述を見つけることができます。そのまま真似られてできたものは、それが技術的に高いレベルでも大抵本家の劣化版に過ぎません。技術的に劣るから嫌いなのでしょうか。それはあくまで理由の一つです。
商業が成立しにくいソロの萌えキャラはWEBや同人誌と親和性の高い存在です。同人誌は趣味や志を同じくする人たちの表現や発表の場とされています。同人活動は受け手が作り手であることも多く、著作権意識も比較的高くなっています。「他人が苦労してつくり出したものを手軽に真似て売るのはマナー違反」「誰でもできる劣化コピーからは主張も思想も感じられない」。特に二次創作では「原作は神である」という意識があり、原作の絵柄をそっくり真似るのは嫌われる傾向があります。技術や絵柄の完成度を期待しつつも、それだけでは語れないデリケートな問題です。※WEBの普及などで急速に低年齢化が進んでおり、著作権的なマナーが必ずしもよいとは言い切れないのが現状です。
『マイナー嗜好』
オンリーワンが叫ばれるこの時代、人と違うことに価値を見い出す人は多いです。RPGの勇者とまではいかなくても、誰だって自分は他とちょっと違うと思いたい。だから個性がなくて完璧なものより、主張の見える個性的なものが深く愛されやすいのです。一緒に成長する伸びしろがあるなら側にいて応援したいのです。たまたま特殊な趣味を持った人は、周囲との違いを楽しむ位が丁度いいですが、人と違うことが目的になるとどこか息苦しいものです。こうなると大手・王道であるだけでもっともらしい理由をつけて否定してしまいがちになり非常にもったいないです。※もっともらしい理由:少年漫画なのにあからさまに女の子狙いのキャラ設定ばかりだとか、家電がユーザーサポートが切れた瞬間に壊れる神話など。言われてみればうなづきたくなるもの。
個人がつくる無名なキャラを探して愛好する喜びは、メジャーデビュー前のマイナーアイドルにある、自分だけが魅力を知っている感に近いものがあり、たまらない満足感です。けなげに頑張っている姿に思わず熱を入れて応援してしまったり、マイナーゆえのどことなくあか抜けない部分が大好きなあなたは強く生きていくしかないでしょう。
『いつでもあなたを狙ってます見てます』
受けたい一心で練り込まれたであろう深い意味も必然性もないように見えるキャラを狙ったキャラといいます。いやいやと言いながらも狙ったキャラが大好きな人は多いです。多少変でも自分の好みに合わせようとしてくれた心意気を買う。狙ったキャラはそれぐらい自尊心が満たされる存在で、愛好家は好みのキャラの価値をうったえるため清き一票を投じるのです。逆に狙い過ぎと感じたキャラは、「自分の趣味はこんな下品じゃない」と敬遠してしまうこともしばしばです。下品をきらう一方、上品すぎても距離感を感じてしまうデリケートな部分です。※狙ったキャラと狙い過ぎに関しては前回参照
『魚を飼う時の水のように』
魚を飼う時は水を魚にあわせることが重要です。
南米原産のカラシン科の魚を飼うのに、日本の水道水をそのまま使うとヒレが裂けたりして調子を崩しがちです。人間が安全だからといって魚にとっても暮らしやすい水とは限りません。故郷で彼らが暮らしていたような、枯れ葉が積もって茶色く変色し微生物がわいたようなちょっとこなれた感じの水で飼育すると、病気にもかかりにくく艶っぽく発色してくれることでしょう。残餌や排泄物などの水中の過剰な栄養素はアオコの原因にもなるので、定期的な換水も必要です。
萌えキャラを描く時は受け手の趣味にあわせることも重要です。
同好の士として心意気を買うのに、露骨な萌え要素をそのまま使うとファンが人目を避けたりして人気を落としがちです。健全だからとってもグラシアスな水着とは限りません。本当は気になって仕方がない彼らのために暮らしに役立つといった粉飾できる口実を用意しつつ、作者の頭がわいたようなちょっとこなれた感じのデザインにこっそり水着をしのばせると、病気にかかったように熱っぽく偏食してくれることでしょう。過剰な萌え要素は無個性の原因にもなるので、客観的な感想も必要です。
●萌え要素は統計から生まれた定石
萌えキャラ作りの常備薬“萌え要素”。今でこそ萌え要素を組み合わせてキャラをつくっただけなんて言えますが、そもそも“萌え要素”は誰かが特別に開発した万能グレードアップパーツ集ではありません。ほとんどが市場で人気を得たものの特徴や傾向を分解してリストアップされたものです。人気の出やすい特徴が“萌え要素”と呼ばれ定石として好んで使われているだけで、人気があってもなくても萌える要因になる要素は萌え要素です。“萌えキャラ”はメジャーな萌え要素を組み合わせてつくったキャラクターと考えられがちですが、本当は萌える思いを表現したキャラクターのことをみな萌えキャラと呼ぶのです。※萌え要素は“萌え”の持つニュアンス的に可愛い方向性の要素を指すことが多いです。
●狙ったキャラではない狙ったキャラ
強力萌え要素を満載した萌えキャラの本命ネコミミメイドは一見誰が見ても狙ったキャラに見えますが、ネコミミメイド愛好家の人が描いたネコミミメイドは『狙ったキャラ』にあたりません。愛好家が好きなものを描くのに受けを狙う必要などないからです。また狙いには当たり外れが付きまといますが、直感的に違和感を回避する力がある“本物”にはその心配がありません。本物の愛好家に備わった心の安全装置は脱衣麻雀のCPU並に高性能です。受け手がマニアであればあるほど“本物”であるという事実は重要なのです。また、ごく一般的な趣味の人にとって美少女絵は基本的に皆同じに見えるので、差別化にもなる“本物であるという事実”はやはり重要です。
『狙い過ぎ=本物らしくない』
萌えキャラは大抵違和感のないギリギリのデザインがもっとも心地よいもので、いつでもそのポイントでブレーキをかけられるのが愛好家の力です。心の安全装置を持たない専門外の人が性能だけを追い求め加速のつく萌え要素を積み込み過ぎると、腕があっても崖から狙い過ぎの海にダイブしてしまいます。『狙い過ぎ』は、明らかに売れるであろう属性を強く意識して専門外の人が描いたっぽい違和感のあるキャラを客観的に言い表わした言葉なのです。
●本物の安心感と付加価値
通なら寿司は寿司屋で、ラーメンはラーメン屋で食べたい。ブランドに対する意識と安心感のもっとも分かりやすい形のひとつです。キャラクターでもブランドは重要な要素です。どうして私たちは“本物”が好きなのでしょう。
子供の描いた絵と子供が描いたような絵描きの絵は全く違うものです。未熟さゆえ意図的でない作品に比べ人生を通した試行錯誤の末にたどり着いた芸術作品には深い美意識が込められており、たとえデータ的にほとんど同じものが出来上がったとしても、作品に込められた意味と精神性の違いで価値が大きく違ってきます。私たちはすべての物事に意味や法則を見い出したい生き物なのです。同じ絵描きの絵でも得意分野についての美意識は一層研ぎ澄まされています。
残念ながらどれだけ目が肥えた愛好家でも技術だけで得られる喜びの大きさはいずれ頭打ちになってしまいまいます。絵描きにとって上を見れば際限ない画力の戦いも、最終的には受け手の“好み”で判断されるのです。耳が痛い極端な話、超絶画力のグラマーなおねえさんを描けたとしても、受け手次第でそれなりの画力の幼い魔女っ娘に小指一つで関節を極められてしまうのが現実です。それでも絵描きは腕を磨き続けるのです。描くことで、技術の向上だけでなく自分の美意識を問い続けなければなりません。そうして人ひとりの人生を費やしてようやく得られた答えの重みこそブランド価値の正体なのです。
芸術では基本を知らずに個性ばかり出そうとするものは異端としてほとんど評価されません。反対に伝統や基本を学んだ上で個性を求めれば、作品が分かりにくいものであっても高く評価されます。萌えキャラ制作でも知らなくて外してしまうと白い目で見られますが、分かった上であえて王道を外して見せるのは好まれます。現在基本といわれている技術や思想は先人が長い時間をかけて研究し遺してくれたものです。基本を知るということは、長く行われてきた試行錯誤と結果の歴史を知るということ。我流のみで背負えるのは自分の人生だけでしかありません。従うかどうかは別にして、基本を知れば自分がどこにいてどうすべきかの大きな手がかりになり、短い期間でずっと強固な存在になれるのです。
さて今日、高い画力の作品が立ち並びもはや好みで選ぶしかないような状態で、視覚の限界を向えたファンは何を根拠に作品を選ぶでしょうか。作品の内面です。好きだからこそ本物の心を求めています。愛好家はキャラの見た目を『大きく跳ねた髪の毛一本単位で』気にしながらも、作品に込められた深い愛や世界観に触れることでキャラクターとの一体感を得たいのです。キャラクターには美意識の塊という面もあり、描き手だけでなく受け手にとっても自己表現になりえるもので、技術的に劣る作品でもファンの波長とあえばちゃんと選んでいただけます。自分の心とあれげな人と思われるリスクと向き合って、いや既にあれげな人かもしれませんが本物を目指しましょう!
●誰でも描ける萌えキャラの描き方完結編
『おむすび』
人気の出る萌えキャラを描けたら素晴らしい。そのためこのシリーズ前半では有力な萌え要素をふんだんに盛り込んだキャラクターの描き方について考えてきました。そして人に受けるためだけのキャラを描いても真の萌えキャラに到達できないという結論に達しました。そこで後半では一歩踏み込んだ萌え要素と萌えキャラの心について考えています。
同じ水準の画力のキャラクターを並べた場合、見た目の与える印象以上に精神的なイメージの力が大きいようです。7年のサイト運営を通じて色んなキャラクターを発表してきましたが、うちでもっとも人気のある子はデザインを本格的に学ぶ前から描いているレイチェルです。
サスペンス作家は殺人を犯す必要はないけれど、萌えキャラ作家の作品の質は“本物”の精神を見つけだせるかどうかにかかっているのです。あなたも心が萌えているなら萌えキャラを描くことができます。描く人も描かない人も心を萌やし続けて素敵な萌えライフを!
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